PrinceOfTennis
地面から二メートルほどの高さの枝の上で私はこれからどうしようかと思案していた。小学校の低学年以来数年ぶりに木登りをすることになったのは、いつもと違う視点で物を見たかったからとか童心に返りたかったから、などという理由ではない。その原因は今、私の腕の中できょとんとした表情を浮かべている。
ジャージを借りる
頭上から盛大に訴えかけてくる鳴き声に上を見ると、丸い瞳と視線が出合った。木に登ったまま下りられなくなってしまったらしい猫を見つけてしまった以上見なかったふりはできなくて、問題の木がこれぐらいなら自分でも登れそうだと思える程度の高さだったことも後押しをした。助けを求めるような声を出していた割には私が木に登りはじめたのを見て警戒の声を上げ出した相手の様子に、そのまま飛び降りて逃げてくれるかもしれない――近所の野良だったら平気で飛び降りている程度の高さだ――という期待を抱いてもいたのだけれど、結局猫は私が同じ高さに辿りつくまでわずかにその場から後ずさる以上の動きを見せてはくれなかった。
「おいで」
抵抗されたらどうしようか、と思案しながら手を伸ばすと、案に相違してあっさりと腕の中にやってきた猫に安堵のため息が洩れる。動物に好かれやすい体質が幸いしたのか、それとももともと誰かに飼われているらしいこの子が人馴れしていたおかげなのか、とにかくこれにて一件落着――とはいかなかった。
「ねー、これからどうしようか?」
腕に猫を抱えたままでは自分も木を下りられないのだ、と気づいた時には自分の迂闊さを呪うしかなかった。飛び降りても死にはしないだろうけれど、いささか勇気がいる高さであることも確かで、だからといっていつまでもこのままでいるわけにもいかない。
「もうちょっと下の枝から飛び降りようか」
悩むこと数分、私はようやく決断を下した。見下ろした先に適当な枝を見つけると、片手で猫を抱えてもう片方の手で太い枝に掴まり、脚をできるだけ下の方に伸ばす。靴の裏に触れた枝の感触に、それが先ほど見当をつけた枝だと確信した瞬間のことだった。
「おい、危ねぇぞ!」
親切な誰かの忠告の言葉は既に遅く、私の右足の下敷きになっていた枝は鈍い音を立てて折れ、そこに全体重を預けていた私は当然の結果として重力に引き寄せられる。あの太さなら大丈夫だと思ったはずなのに乗り移る枝を間違えたのだろうか、と思ってからすぐに自分が大きな見落としをしていたことに気づいた。
(そうだ、子供の頃とは体重が違うんだった)
それほど遠くないはずの地面が近づいてくるのが妙にゆっくりと感じられるのは、自分の脳が常にない速さで回転しているからだ、というのは後になってから気づいた。
「ったー……」
幹を滑り落ちるように落ちたおかげか墜落の衝突はあまり感じなくて済んだものの、盛大にすりむいた両手が焼けるように熱い。
「大丈夫か」
「はい、大丈夫で――猫!!」
低い声――多分、さっき忠告してくれたのもこの人だ――に問われて応じている最中に、自分の腕の中にいたはずの猫のことを思い出して思わず叫んでしまう。この状況を傍から見た図を想像するとどう考えても自分の反応はおかしいに違いない。
(は、恥ずかしすぎる……)
「あの、猫が私と一緒に落ちたはずなんですけど……」
「猫ならもういねぇぞ」
「怪我してるかも……」
「大丈夫だろ。あんたが落ちた時に自分で飛び降りてたからな」
元気にあっちの方に逃げていった、と答える彼の言葉に、どうやら猫は怪我をしていなかったみたいだとわかってようやく安心した。助けてあげようとしたのに巻き添えで怪我をさせた、なんてことになっていたらあまりにも自分が間抜けすぎる。
「よかったぁ」
「それより自分の心配した方がいいんじゃねぇのか」
言われて見下ろした自分の姿の無残さに、思わず笑いが零れた。手や腕からは血が出てるし、服もあちこち破れて見る影もない。
「笑いごとじゃねぇだろ」
(この人、いい人なんだろうなぁ)
ぶっきらぼうな口調にははっきりそれとわかる心配の色が含まれていて、こんな状況だというのに妙に嬉しい気分で上を向くと、そこには見覚えのあるジャージ姿の男の子がいた。
(あれ、この子……)
テニス部のレギュラージャージは青学内では有名なアイテムだけれど、さすがに違う学年の子のことまではわからない。それでも、彼の顔には心当たりがあった。
「海堂君?」
「俺を知ってるのか」
俺はおまえなんて知らないぞ、と言いたげな表情からはわずかに警戒心がにじみ出ていて、何故か先ほどの猫を彷彿とさせる。
「私も青学だから。藤原十夜。クラスは3-11ね」
「乾先輩と同じクラスだな」
「そう、海堂君、乾のところにたまに来てるでしょ」
それで覚えていたのだ、と種明かしをすると、彼は納得したような表情になった。
「はぁー……同じ学校の人にこんなところ見られちゃうなんてついてないなぁ。乾には絶対黙っててね!」
データ追加されちゃう、とぼやくと海堂君は微妙な表情を見せた。尊敬する先輩がテニスのデータ以外に他人の弱味の収集癖も持ち合わせているとは知らなかったのかもしれない。悪いことをしてしまった気分になりながらその場に立ち上がると、海堂君はいきなりその顔を赤らめて横を向いた。
「おい、これを着ろ!」
そう言って、自分の着ていたジャージを脱ぐと私に差し出してくる。彼の着ていたジャージというのは言うまでもなくテニス部のレギュラージャージだ。それがテニス部員にとってどれだけ大切な物であるかは言うまでもないことで、一時期レギュラー落ちをしていた乾がそれに再び袖を通すために特訓を重ねていたことも知っている身としては、普通の服のように気軽に借りられるはずもない。まして、今の私は血だの土だので汚れ放題で、この上にその白いジャージを羽織ることを想像するとそれだけでも恐ろしいような気がしてしまう。
「だめだめ、汚れちゃうから!」
とっさに拒絶の言葉を吐き出した私を、彼は迫力のある三白眼でじろりと睨みつけてきた――かと思いきや、すぐにまた顔を逸らしてしまう。
「あんた、自分の格好ちゃんと見てみろ」
「格好って……」
言われて見下ろした自分の姿は確かにひどい。先ほども確認した通り、血や土にまみれてあちこち破れている。
「――あ」
座り込んでいる時にはあまり目立たなかったけれど、よく見ると胸の辺りの生地がぱっくりと裂けてその下から下着が覗いていた。それに気づくと同時に、海堂君の赤い顔にも納得がいった。
「わかったか」
「わかりました……」
「わかったら着ろ」
二度目に差し出されたジャージを拒む言葉は出てこなかった。さすがにこの格好で家まで帰るのはつらいものがある。
「これ、洗って返すね」
「別に気にしなくていい」
申しわけない気持ちになりながら受け取ったジャージを羽織ると、その大きさに胸が不規則にリズムを刻んだ。どうしてだろう、落ちてからもうずいぶん時間が経ってるのにまだ興奮が収まらない、なんて、誤魔化してみても白々しいだけだ。
(好きになっちゃった、かなぁ)
昔のブログから蔵出し第三弾。
2014.04.15
2008.05.19初出